NHK大河ドラマ「どうする家康」の第二話が終わりました。次回予告には衝撃の言葉が!!「本多平八郎忠勝討ち死に」
え〜ッ??どういう事!?本多忠勝って戦国最強武将じゃなかった??こんなに早く死んじゃうの!?蜻蛉切や鹿角脇立兜姿見てなくない?
今回は本多忠勝が討ち死にするのがデマな理由を調査しました!
本多忠勝が討ち死はデマな理由は最強な戦国武将!
本多忠勝は戦国最強武将と呼ばれ、徳川四天王に数えられていました。
かすり傷一つ負わない武将
13歳で初陣を果たしますが、生涯で57回もの戦に出陣し、そのいずれの戦においても傷を負ったことはなかったと伝えられています。
そんな武将が討ち死にする訳がないです。
現役武将だった時間と死期の矛盾
本多忠勝が生まれたのは1548年3月17日。亡くなったのは1610年12月3日(慶長15年10月18日)。享年63。初出陣したのは13歳です。隠居したのが1609年ですから本多忠勝が61歳の時です。約48年間は現役武将として活躍したはずです。それを考えると第三話で本多忠勝が死ぬのは早すぎます。
何かの伏線があるか演出でしょう。安心してください。山田裕貴さん演じる本多忠勝はまだ死にません!
本多忠勝が討ち死はデマ!死因は病死?
本多忠勝は1609年から隠居生活を始めています。本多忠勝の最期を調べながら死因を考察します。
1604年頃:病にかかり始める→江戸幕府中枢から離れる。
1607年:眼を煩う。
1609年:隠居する。
1610年:徳川秀忠が挙行した大規模な巻狩(狩りの一種)に同行。→桑名で死去。
そう考えると、本多忠勝が討ち死にした可能性は低そうですよね。
戦場でかすり傷一つ負わなかったとされる無敵の本田忠勝。その本多忠勝も死の直前に彫刻刀で自分の指を切ってしまい、このことで死期を悟ったとされています。
本多忠勝が討ち死はデマ!かすり傷一つ負わない兜と槍がトレードマーク
本多忠勝はかすり傷一つ負わない戦国最強武将と呼ばれ、徳川四天王に数えられていました。
本多忠勝の強さの秘密は何なのでしょうか?
鹿角脇立兜(かづの わきだて かぶと)
本多忠勝の兜は鹿角脇立兜と呼ばれる派手な兜です。
見た目の派手さも戦の強さに関わって居たのではないでしょうか?強そうに見えますよね?鹿の角がとても印象的です。
1560年:「桶狭間の戦い」で、徳川家康の主君・今川義元が討たれる。
→今川家が混乱している隙に徳川家康たちは独立することを考えた。
→一刻も早い独立を考え、急いで故郷の岡崎城を目指す。
しかし、岡崎の手前を流れる矢作川が前日の大雨で増水しており、渡れない。
→徳川家康達の前に1匹の鹿が現れる。
→鹿が悠々と対岸まで渡る姿を目撃する。
→鹿が川を渡った箇所が浅瀬になっていることに気付く。
→その浅瀬を利用して川を渡り、岡崎城入城を果たす。
この時の鹿を本多忠勝は伊賀八幡宮の使いだと考えました。この鹿が徳川家康を助けてくれたと感じた。
この鹿のように、徳川家康を守るのだ、という決意を込めて鹿の角の鹿角をした兜を作りました。
本多忠勝が鹿の兜をかぶっているのはこんな逸話があったのですね!鹿が川を渡る姿さえも意味があると考えた本多忠勝。やはり思考も最強武将だったように感じます。
蜻蛉切(とんぼきり)
蜻蛉切(とんぼきり)とは、徳川四天王である本多忠勝の愛槍で天下三名槍のひとつ。
鹿角の兜とともに、本多忠勝のシンボル。
『蜻蛉切』という呼び方は、この槍を立てておいたところ、穂先に止まろうとしたトンボが、真っ二つに切れてしまった程に鋭いことから呼ばれたとされています。
蜻蛉切の穂先は一般的な槍の穂先の半分くらいの重さで薄く、軽い。トンボが真っ二つに切れると言われても説得力のある鋭さを持っています。
鋭くも軽い蜻蛉切は、常に軽装で縦横無尽に活躍する忠勝にとって、最適な武器だったと考えられます。
まとめ
今回は本多忠勝がNHK大河ドラマ「どうする家康」第3話で討ち死にするのがデマな理由を調査しました。
本多忠勝はかすり傷一つ負わない戦国最強武将であるため、戦では死んで居ない可能性が高そうです。
本多忠勝のシンボルと言える「鹿角脇立兜」と呼ばれる兜と「蜻蛉切」と呼ばれる槍が戦国最強武将を大いに手伝っていたと言えそうです。
鵜殿長照役は誰?の記事はこちら。